昭和45年8月10日 月次祭
月例祭における教話
あぁ~、信心とはと。まぁ色々にそれを答える、え~答えるすべが色々あると思うんですね。え~けれども、答えたというだけではいけん。その答えられた事に対して、え~みんなが納得がいく、合点がいくおかげに繋がって行かなければ、駄目だと。金光様の信心とはこうだと、例えば( ? )にして答え合わそうかと、ん~分かっただけではなくてね、それがその、そういう信心なら、そういう信心を身につけたら、どういう事になるのかと。そのどういう事ということに、だんだん近づかしてもらい、それが進展していく、おかげに繋がって行くという物でなからにあいけんと、ね。
それで、今日私は、お道の信心とはという事をね、え~人間が幸福になっていく、もう間違いなく幸福になれれるお道、しかもその道がね、誰に冒される事もなく、しかもそれが、今朝からの御理解ではないですけれど、信心はくぎづけではないという、その幸せの座という物がです、だんだん高められていくという事にあるのだと、ね。ですからそういう信心を頂かにゃいけん。
私、今日の、只今の御祈念にですね、今晩の御理解を頂かして頂いたらね、あの、私が、え~、御祈念をさしてもらいよる時に、あの、祝詞座をこう持って来てくださるですねえ。いわゆるあの、畳半畳でつくった、いわゆるあの、祝詞座です、ね。その祝詞座にね、そういう事が書いてあった。だから、幸せの座というか、幸福の座というか、ね、その幸福の座というものがですね、しかも誰に冒されることもなく、ね、それがしかもね、もう揺るぎのないというのじゃない。それがね、限りなくその座が押し上げられていくというところにお道の信心の焦点、お道の信心とはというたら、そういう風に今日は私は皆さんに答えて、え~皆さんに聞いて頂こうとこう思う。
ね、ですから信心がない人、やはり幸福になりたい為に、やはりお金が大事ですわね。お金を儲かる為には手段を選ばない、ね。また、少しでもよけい給料とるならやっぱり、もう高校ぐらいじゃ駄目だから大学にも行かにゃでけん。学問も身につけなきゃならん。というて、いわば学問の、まぁ若い時には一生懸命学問を身につける事に一生懸命になり、さぁ大学を卒業したら就職の事に一生懸命になり。しかも少しでも給料の大きい、多い、まぁ手当ての良い、その~、仕事の場というものを願うわけなんです。
そして、まぁ人格もでけた、財産もでけたという、なら座を、ま、獲得いたしたと致しましょうか。その獲得の座というものはね、いつも絶えず、もうどこからか睨まれとる、狙われとる。それこそ人の幸せじゃない、自分が子供の為になるなら、その、いわゆる茶碗でも叩き落してから自分がそこの座を狙うといったようなね、そういう、例えば世界と、ね、幸せの座についたら、しかもその幸せの座というものが、ね、だんだん、え~揺るがないじゃなくてですね、いわゆる、くぎづけではないから、それがだんだん押し上げられていくということ。
ね、信心させて頂く者の、お~、幸せをね、そこにあると悟らしてもらい、そこを分からしてもろうて、え~いわゆる、まぁ冒す事の出来ない座という事は、まぁゆるがない座というても良いでしょう。けども、揺るがんじゃなくて、ありがたい方へは限りなく進展、押し上げられていく、これは誰も冒す事が出来ない。ね、例えばなら私がここに幸せになって、はぁまぁ、うらやましがられますよね。まぁだ、三年かそこらの教会になったばかりの教会に、日に何百の人がこの暑い中にでもやっぱり落ちる事はない。みんなお参りをしてくる、ね。さぁ御大祭といやぁ沢山な人が集まって、え~沢山な、いわゆる善男善女に取り囲まれて、沢山なお供えの中に埋まるようにして私がおるという事はですよね、やはりそういう、例えばなら幸せ、まぁ形だけでいうならば、幸せの座というものはね、これは誰も冒すことは出来ないんです。
ね、それはどういう事だろうか。私共はね、そういう座を目指して信心をさしてもらわなければ駄目だと。目先のことが一つ成就する、この事が叶うた、というぐらいな事が信心の全部であるとでも思うたら大変な事なのだと。それは場合によっては、右と願って左になり、左と願って右となるといったような事があっても、私共はゆるがないそういう幸せの座、いやっ、限りなくその座が、押しぁ、より幸せへと押し上げられていくほどしのおかげを頂かして頂く土台をね、自分で築き、またはそれを自分の心に感じ、体にもそれを感じて、生活して行くてのが信心生活だと。ね、例えばなら信心を抜きにして、ね、幸せの何たるかということも知らずして、ね
先日、お話を聞かせて頂いたここの御信者さんのご親戚にあたる、ね。もうそれこそ器量といい、財産といい、もうどこに、不足はなかろうというほどしの方がです、ね、もう七十いくつになられますでしょうか、ね、とにかく、寂しゅうて寂しゅうてたまらない。
子供達が東京に行くとね、それこそもう、見たこともなか、こげなダイヤモンドがあるじゃろうかちいうごたるとがお土産、おばあちゃまに。あぁなかなか考えちゃるですよねぇ、やっぱ息子さんも。あ、死んだらまた俺が物になるとじゃけんで、もう食べたり着たりする物じゃぁ、また無うなるけんで、もう無くならんもんば買うち来ちなさる。ダイヤモンドのこげな、もうえらいなもんば買うて来なさる。そしたらまた、おばあちゃんがそれを、そのダイヤモンドを集めるのが、まあ趣味らしい、若い時から。色んな宝石をたくさん集めるのが、ね。ですから喜ばれる。けどもそういう例えば、そんなら世の宝と言われるようなもんに取り囲まれておっても、最近は年をとっていくに従って、もう私は養老院に行こうかとまで言いござる、ね。それほど、なるほど金さえ出しゃぁ今、手取り足取りしてくれるほどしの養老院があるそうな。けれどもね、それだけで人間が幸せになれるだろうか。手取り足取りしてもろうたら人間が幸せになるだろうか、幸福を感ずる事が出来るだろうか。
これは心で感ずる事なのですから、そこにはまた、そこに私は、幸せという物がなかった事に気づかれるだろうか、たとえそれ、そういう事になっても。そういう事にですね、信心のない人は、血道を上げて一生懸命に若い時には、そのなるものです。
ね、しかもね、その例えば周囲からですよ、これは人間という意味じゃないですよ、ある意味では神様というても良いでしょう。いつあれを叩き落そうかと、あれがロクな事をせんなり儲けだしたり、いつ蹴落としてやろうかといったような人の働きだけではないです。ね、分限者、三代なしっていうのはそれなんです、ね。
そういう例えば、虎視耽耽とです、私共が営々として築いた幸せをです、ね、睨まれ、狙われておるというだけでも嫌ですね。そういうようなものがです何かに感じられてくるのですよね、信心がなくて、その幸せそうにしておる人は。年をとってくるに従ってそれを感じてくる。ところが、信心をさして頂く者のはそれではない、自分の心に感ずるものだ。このまま行きゃぁ、もう極楽っちゃぁ間違いなかろうと自分で思えれる。
ね、物の見方、考え方、さきほど秋山さんが前講の中で話しておられますように、ね、信心しよるとに、どうして事故が起こったじゃろうかといったような思い方じゃない。さぁその為に、また単車の免許を取りに行かになならん、この暑いとに、というような考え方は少しもない。それこそ、喜びで生き生きして、例えばその、試験を受けに行く道すがらでもです、ね、とにかく稲田が生き生きとして、その、成長しておるのを見ただけでも感動しておられる。ヤツデの葉が黒々として、え~道端にあるのを見て感動しておられる。ね、何という、その、植物でも生命力という事の、そのたくましさというか、しかも天地の自然のこういう暑い、ね、熱風のような風の中にです、生き生きと青さを失わずに、いわゆる生き続ける事のですね、そういう、厳しさというものを、このように秋山さんは感じておられる、ね。私達がとにかく、例えば修行の、ぐらいな事は、もう有り難いものとして受けて行っておられる、ね。
生き生きとしたその喜びで受験をされた、ね、おかげで100点満点じゃった。みんなそんなに勉強できとったか、そうじゃなくてから、いわゆる神様にお願いをしては、分からんところは、丸をつける。神様に、いわゆる三角をつけたり、丸をつけたりして、その分からんところをさして頂いたのがです、それが全部、合格、満点だったと、こういうのである。ただ、試験場のこと、所だけでね、ただそげなこつば言ったっちゃ駄目だと思う。ね、その、信心の状態が、ね、例えば行く道すがらだけでも、物の見方、考え方というものがそのような考え方が出来れるだけにです、日頃の信心のけいこをしておられるという事が尊いのである、ね。これはまぁ、そういう例をいうなら限りがないことよね、おかげは。
今日は私、ちょうど午後の奉仕をさして頂いておる時に、ちょうどお参りも、閑散としておる。ちょうど二番目の娘が学院から帰って来ております。で、ここへ出て参りまして、学院での色んな事を、お届けをさして頂くんです。または、色々わからないところのお伺いをさして頂いております、ね。今度、学院に行って改めて思うた事はですたい、ね、どうしてまちっと本気で御教えを頂いておかなかっただろうかという事だと、こう申しております、ね。もうですから、え~、どんな場合でも一番はじめに出て来るのは、「親先生~」ということだと。え~、まぁ一生懸命、奥城参拝を、さしてもらうらしいです。朝の御祈念の後の奥城参拝さして頂く所で、須賀先生の奥様とこの頃あの毎日、むこうも会う事を楽しみにしておられる。
それで、え~もう自分も、まぁ会う事が楽しみ。その方がね、そのある時に、もう今日はもうきつうして、きつうして、お祓いも上がらんぐらいにきつかった。そしたらね、その~、どっかのその、腰のこう曲がったおばあちゃんが、もう腰のこう曲がっておられる。車を押してからみえるそうです、もうやっぱ70いくつでしょうかね。先生は、あんなに若々しくしておられるけれども奥様はもうそんなにお年だと。もう毎朝、3時50分のお出ましは、あの三角のあの金光様の角で、あそこにお座りになってから金光様をお迎えになるというほどしに熱心な方なんです。
その方がですね、もうそれこそ熱いようなゆで卵を持って来てね、「あなたこれひとつ召し上がれ」と言うてからくださった。もう特にね、ここで卵のお知らせは元気な心と頂いておったから、本当にその卵を頂いたことがね、もうそれこそ、大変な元気にならして頂いたと言うておりましたがね。
それから毎朝、何か持って来てくださる。ね、あぁ何かその、色んなものを作って朝、その愛子に持って来てやんなさる。それで、三橋先生に、が、「この方は合楽のお嬢さんです」ち言うて、「はぁ貴方が合楽のお嬢さんですか」ち、主人がね、あの前に何年か前にみえてお話しにみえた事があるという。でまぁ、その時の事から、それからなお親密になって、まぁ色々信心の元気付けをしてくださる、また色んなものを持ってから来てくださる、ね。
その、そのおばあちゃまがその仰るのにね、私あなたと毎朝ここで朝の御祈念に会う時に、貴方に会うのが楽しみだったち。けん、どういう事が楽しみだったかちいうたら、貴方が奥城の前に座られる、拍手が出ると、「親先生~」ち言うて、もうあれば聞きよったら私は涙のポロポロ流れるちいって、言われた。この人が親先生ち言うて、唱えござえる親先生っちゃどういう親先生じゃろうかと思いよった。そしたら、そのたまたま聞かして頂いたら、あなたは合楽のお嬢さんという話じゃが、ね、本当に良い御信心がでけられて良いですねぇというて、まぁ色々信心の力づけをして下さる。もう毎日何か持って来てくださる。
というようなお話を聞かして頂いて、ね、まぁ有り難いなと。今日の午後のその奉仕の時にも、本当に人間なぁ有り難いと思うたら、暑いも寒いもないですね。この頃からは、ちょうど奉仕をさして頂いておる時に、え~五代金光様がお見えになられて、私も手伝うてあげようというてから色々、手伝うてくださった。で、「あんた何処から来とる」って言われるから、「九州からで」ち言うたら、九州はと言われるから、合楽でございますっていうたら、「あぁ、ならあんた、あんたが愛子さんじゃったか」っち言われたことです。覚えておられた。もう私はそれを聞かして頂いただけでも胸がいっぱいになった。ね、御一緒にお写真を写らして頂いておりますもんですから。
ね、それから、まぁ色々お話になって、「あたしの方ではもう子供が三人も出けたけれど、豊美お姉さんはまだ子供に恵まれない。あっちも子供出来られなけらいけんな」ち言うてある。もう本当に、いわゆる「豊美お姉さん」ち仰った、ね。金光様があたしの娘に「豊美お姉さん」ち仰った。そういうような働きというものがです、ね、出来て行きよるという事も有り難いがです、私は最近の豊美の次々と、皆さんがあちらへ行かれてからの事を聞かしてもろうたり、え~、お届けの事を聞かして頂いてです、まぁ色々有り難いと思う。例えば、私の長女であるところの豊美に、いうなら古川家の長男の嫁としてです、ね、古川家に座を神様が与えてくださった。ね、今日私が言おうというのはそこんとこなんです。ね、古川の嫁の座を与えられた、ね。
古川と言えば、ならお道の信心をさして頂いておる者は、いわゆる勿体ないという事なんですよね。金光様のご兄弟のお家、ね、教祖様をおじい様に頂き、といったような家柄なのですから、それは、お道の信心さして頂く者としては、もうこれもより有り難い事はないというところに座が決まった。ところがです、ね、その座をね、誰も冒す事は出来ないだけではなくてね、その座をいよいよ揺るぎのない、より有り難い座にしてくださろうとする働きがあっておる事を気がつかして頂きます。
もう話を聞きますと、大坪と古川の家というたら、もう天と地ほどにその生き方が違う。ね、赤と白ほどに違う。そういうぜんぜん違った世界にです、入らしていただいても、まぁいうなら、豊美の戸惑う姿を目の前に見るように思うんですけれどもです、私は、この人は信心の根性がしっかりしておったと、ね。
ですから、それがね、もう最近では非常に楽しくそれに取り組む事が出来るというております。ね、もう、本当にそこに揺るがないというか、いわば本当の古川の長男の嫁としての座が決まっていきます、ね。ですから、ここではまだ修行も出来ていなかったけれどもです、その修行を神様がさせておってくださる、ね。しかも本人はそれを有り難しと受けて、おかげを頂いておる。この頃から、その、まだ子供に恵まれないですから、もう子供が欲しい。もう周囲からいうならその、ヤンヤン言われるから、どうでも欲しいという訳なんです。で今日、私4時の御祈念にその事をお願いさしてもらいよりましたら、え~、やはり古川の長男の、例えば子供というならば、長女か長男か分かりませんけれどもね。やはり、古川の家にふさわしい子供でなからないかん。
それにはね、夫婦が揃うて金光様の前に出て、どうぞ古川の家にふさわしい子供をお恵み下さいと、お取次ぎを願わして頂いて、頂かして頂く子でなからなければいけないというような意味の事を頂くんです。神様が古川の家に誂えようとして下さっておる、そこにね、まだ妊娠のおかげを頂けずしておるという事を感じさして頂いて、まぁその事ありがたいなぁ、夫婦がその事に気づかして頂かなければならないなという事を思うた、ね。お互いがね、おかげを頂きまして、ね、それぞれ、私が今日申しますように、本当に幸せの、いわゆる座というもの。それは誰も冒す事の出来ないほどしの座に、現在私はあるという自覚と、またそれを実感でけるだけの信心を、まず身につけることが先決問題です、ね。
それはならどういう事かというと、今、まぁだお金にも不自由しておる、なら体もまだ不健康である、ね。人間関係で様々な問題が山積むほどあるけれども、信心さして頂いておって、その事の全てがね、神愛であるとか有り難いと分からしていただいて、そういう中にも有り難いという事の分かってくるという事の、私は、私は幸福の座というのはそれだと思うんです、ね。
どういう中にあっても、お詫びが出来る、どういう中にあってもお礼が申せれる、どういう中にあっても願えれるという信心。その答えが全部有り難いというものに繋がって来る。ね、詫びれば有り難いという事がわかってくる。ね、願う事によってです、ね、神様がおかげを下さるという確信がだんだん強うなってくる、ね。御礼を申し上げたら限りがないほどに、御礼を申し上げる事の多いのに驚くという、有り難いという物。そういう有り難いという物がです、私は幸福のまず第一段階であり、その座が、心がまず助かるという事なんです、ね。
この、幸福の座がですよね、だんだん、いわゆる誰に冒される事もなく、高められていくという、高められたものであって、初めて本当の人間の幸福だという事を分からしてもらわなければいけない。ね、私共が例えば信心がなくて、いかにも幸せその物のように、金にも不自由せん、物にも不自由せん。けれどもね、様々な難儀を実際は持っておる、持っておって、それは人間じゃけんこのくらいな難儀は当たり前じゃろうと思うとる。ね、そうして、よりまぁだ、その儲けださんならん、もちっと良い立派な家を建てなならんというて血道を上げておる、ね。これではいつまで経ってもですね、財産は増えても、家は立派になっても、人間の幸福という物はいつまで経っても、いつまで経ってもない、ね。
そこにね、気づかせて頂いて、信心のいわゆる喜びという物をです、ね、どういう中にあっても喜びが湧く信心を、まず身につけなければならない。そこから、信心のある者とない者の違いがハッキリしてくるのだ、ね。そこで、私はやはり、お互い信心のしっかり根性を鍛えて行かなければいけない、いや鍛えるというよりも、根性を磨いて行かなければいけない。根性を・・・ん~。
昨日の御理解でしたかね、え~、清めていく、または、その、研磨と頂いたですね、研磨すると。いわゆる、磨いて行く、磨きすって行く、ね。しかもそれがだんだん無くなっていく、磨いていきよるうちに。いわゆる、その根性が無くなっていくというようなおかげを頂かしてもらわなけりゃならん、ね。
だからその根性をね、私共が持たんと本当の幸福の座にようやく着いても、そこのところだけで終わってしまいますから、それを一段といわゆる向上して、いうならば、本当のいわゆる幸福の座というものは、それに匹敵する心の修行というか、ね、信心の喜びという物がなからなければ、そこの座が上に上がっていかん。その幸福の座がね、だんだんこう、押し上げられていく楽しみをね、頂くところまでが、私は信心の調子を覚えるといったような事じゃなかろうかとこう思う、ね。
だから、もうただ、あぁ、おかげに、目先の事に一喜一憂しておるといったような事がもし信心の全てであるというように思うて、たとえ一生それを続けてもです、今日私が申します、いうその幸福の、いわゆる本当の意味での幸福の座という物は与えられない、ね。
どうでもひとつその、幸福の座を目指さなければいけん。それはどういう中にあっても、例えば暑かっても寒かっても、その暑さ寒さを感じんほどしの、有り難いという物が信心によって頂かれるという事なんです、ね。それを私共がひとつ身につけて行かにゃきゃいけません、ね。どうでもひとつ、暑い中にね、こうやって皆さんが一生懸命お参りをなさいます。ですから、そういう本筋にのりとったところの信心が身についていく楽しみじゃなからなければ、信心がいわゆる弱い物になる。もちろん根性なんかが磨かれたり、いわゆる磨きすられていくといったような事は出来ません。磨いていく事が、すっていく事がです、楽しゅうなってくる、ね。そういうおかげをひとつ、どうでも頂いて頂きたいと思います。
今日わたくしは、え~、幸福の座という事を皆さんに分かって頂きたいと、今日は初めて頂いた御理解ですからね。
なら幸福の座とはです、誰も侵すことは出来ない、ね。しかもそれは揺るぎがない、揺るぎがないというても上の方には何ぼでも押し上げられていくというのが、幸福の座なんです、ね。私共が、金や物やら地位やら名誉やらで幸せの座というものを、よし獲得してもです、人からうらやましがられるほどしのおかげを頂いてもです、ね、そういう例えばうらやましい人達によって、いわば叩き、いつ叩き落されるか分からない。音が出ておる証拠には、長者二代、三代と続かないという印がありましょうが、ね。信心によって徳を受けて、本当の人間の幸福の座ということを目指して信心さしてもらい、そしてこれが幸福の座であろうかと思われる所まで、信心がひとつ向上していかにゃいかん。それは現在の、例えば難儀なら難儀を持っておる中にでもです、例えば今日わたくしが、暑いとか寒いとかと感じておる中にです、愛子の話を聞かして頂きよったら、ね、それこそ暑いも寒いも感じんほどしの有り難いものを感じた、ね。
そういう私は、座をまず何と言っても、先に獲得しなければいけない、という事になるのですよね。どうでしょうか皆さん、その少~しぐらいはその、幸福の座という物を分かって来て、もうそこに座れば幸福の座という事は簡単のようですけれども、これはやはり自分自身のね、え~、信じっ、いわゆる信心というかねぇ、いわゆる本当の信心を目指さなければそこには座られない。信心何十年しておるから、そうだという事ではない。ね、そこを目指しての信心をさしてもらう。
今日、朝の御理解の後に久留米の佐田さんがお届けをされました。え~、信心はくぎづけではないという御理解でしたね。ですから、決して同じところに止まっておるのじゃない。信心はもう、進展に進展を重ねていく。しかもその変わって行く、進展していくという事は、えぇ、いよいよおかげを頂くという事に繋がっておらなければならないといったような事でした。そしたら、それを、お話しを頂きながら頂いておられるのがね、ずぅっとその、汽車のレールを頂かれます。そしてそこに、え~、もうそれこそ長い長いトンネルを見られた。ところが不思議な事に、トンネルと言やぁ真っ黒にしとらなならんのだけれども、一番むこうまでが見えるほどしに、そのトンネルの中が明るかったというのです、ね。
もう今朝の御理解をそのまま頂いておられるとですよというて話した事ですけれども、私共がまず信心の軌道に乗らなければならない、ね。軌道に乗らせて頂いて、それこそ暑かっても寒かっても、暑い寒さを感じんほどしにです、いわゆる有り難いものを感じれれるようになる、それがそのまま光になるのである。それは信心しておるから良か事ば~っかりという事じゃない。これこそ、ここがトンネルの真ん中じゃろうかという所もあるけれども、信心の光を持ってするならばです、それは決して真っ暗いものではない。どこでも向こうの見通しまでがつくほどしのです、有り難い。普通では真っ黒、それこそ目の前が真っ黒になるような事だといったような事の中にでもです、ね、信心の光を持って、そのトンネルの中を暗い思いもせずに通って行けれるというのが、信心。私は、幸せの座とはそういう事だと、ね。だから、幸せの座にでる、それに座れれる一つ、軌道にまず乗る事だと、ね。
そして、それがだんだん、その信心の喜びが高められて行く。それがいよいよ向上して行くというおかげ、ね。信心の光がいよいよ頂けていく事の楽しみとか喜びという物がです、よしどういう事に直面しても、ひとっつも迷わんで済む、真っ暗い思いをせんで済むほどしのおかげを頂いて、この軌道を、あの、幸せへ幸せへと、幸せの方へ向かって、進行して行けれるというようなね、おかげを頂く。ここんところの軌道に乗るという事ですね。
今日私が申しましたのは、そこんところを申しましたが、その軌道に乗る事の為は、ただ信心っちゃぁ御利益を頂く事だ、といったような、あぁ、生易しい考えではなくて、信心とはどこまでも本心の玉を磨くもの。信心とはどこまでも日々の改まりが第一だというところにね、焦点をおいて信心のけいこをさして頂くことの喜び、こういう有り難い信心に縁を頂いておることの有り難さをですね、分からして頂く信心。そういう信心を分からして頂いた時こそね、また、感じれれる時こそ、私は軌道に乗ったんだと、こう思う、ね。
だから、その軌道の中を、軌道を、いわばまっしぐらに進んで、またそこにエネルギーが必要である。同時に、トンネルに差し掛かりましてもです、ね、どのような事があっても驚かんですむ。いや、むしろそのトンネルの中こそがね、大事にしなければならないと思われるほどしのおかげ、または自分の信心の光によって、それを難儀を難儀と一つも感じんで済むほどしのおかげです。そういうおかげを頂いて頂きたいと思うですね、どうぞ。
信太郎